ある夜のできごと

その夜、少し飲み足りなかったぼくは、近所のBarへ出かけることにした。
自宅マンションからは歩いて4〜5分ほどのBar。
夏はビーサンに短パンが正規衣装のぼくは、その日もペタペタと足音を立てながらそのBarへむかった。

そのBarは地下にある。
いい気分だったぼくは鼻歌を歌いながら階段を降りていった。
ビーサンで階段を降りると、その音はペタペタからペチャンペチャンに変わる。
それはそうだ、一歩のピッチは遅くなり、足が宙に浮いている時間は長くなる。
足が宙に浮いているあいだは、ビーサンは足裏から離れてしまう。
足裏とビーサンが再び出会う時、歓喜の音を立てる。
その結果、階段を降りる足音は少し喧しくなるのだ。

そのBarの入り口は自動ドアだ。
建物の年季が入っているせいか、出入りするときはガラゴラと結構大きな音がする。
階段を挟んで向かいの食堂の自動ドアは、ずいぶんと長い間故障したままで、手動ドアになっている。
このBarの自動ドアも、いずれ手動ドアになるのか、と気が気ではない。

いつものように、「まいど〜」と言いながら店内に入っていった。
いつもならカウンターの中にいるマスターがいない。
近所に足りないものを買い出しにでも行ったのだろうか。
ローカルなマーケットにあるこのBarのマスターは、客に留守番をさせて近所へ買い出しに出掛けることが多々ある。
今日はまだ来客がないから、店を開けたまま出かけたんだろう。
そう思ったぼくは、しばらくカウンター席に座って待つことにした。

ぼくがビーサンと短パンを正規衣装にしているのには訳がある。
別に水虫だとかそんなチンケな理由ではない。
もちろんそんな疾病には罹患していないことはキッパリ明言しておく。
実は、ぼくは椅子に座るのがあまり好きではないのだ。
できれば畳に座りたい。
そう、胡座をかきたいのだ。
ビーサンなら、どこでもすぐに脱げて胡座をかける。
可能なら蓮華座にしたいくらいだ。
胡座をかいて骨盤を立てると、背筋が伸びて長い時間座っていても猫背にならないし、疲れないからいい。
この日もカウンターの椅子に胡座をかいて座った。

店内の壁に貼ったパロディアートを眺めたり、ウィスキーの瓶を数えたりしながら、かれこれ10分近く待っただろうか、まだマスターは現れない。
そのうち尿意をモヨオしてきたのでトイレに行った。

先ほど入ってきた入り口の前を横切り、階段の下に設置された扉を開ける。
無駄に広い手洗いスペースを抜けて、個室に入った。
自宅ではまあまあの量のビールを飲んでいたので、膀胱が膨らんで下腹部を丸く押し広げている。
貯めていいのはお金と信用だけ。
余計なものは出してしまおう。

ジョボジョボと音を立てながら放尿。
ジュバババーーっと勢いよく水を流す。
我ながらよく溜まっていたものだと感心した。

洗った手を拭いたものの、少し濡れたままの指先で扉を押した。
押した勢いが強すぎたようだ、建てつけの良すぎる扉はバタタン!とかなり大きな音をたてて閉まった。

トイレから戻って席についてもマスターはまだ現れない。
手持ち無沙汰になったぼくはiPhoneをいじり出した。
Facebookを観て、時折コメントを付けたりした。
そうやって座っていると、店の奥のバックヤードからなにやら音がすることに気がついた。
周期的な音。
低音。
ピアノの鍵盤で例えるなら、多分F2かG2くらいの音。

いや、音ではないな、唸り声のようだ。

獣でもいるのだろうか。
そういえば何週間か前に、ここから数百メートルの尾崎神社のそばで熊の目撃騒動があったことを思い出す。
マスターは熊でも飼っているのか?

いやまて、獣が威嚇する唸り声ならこんなに周期的なはずはない。

そうか、呼吸音か?
あぁ、これはいびきだ!

やたらとバックヤードが広そうなそのBarは、きっと奥のスペースに秘密基地が作ってあるに違いない。

もしくはオンナを連れ込むための寝床があるのかもしれない。
マスターは、お楽しみのあとで眠り込んでいるのだろうか・・・

しかし、邪魔をするのは申し訳ないが、ぼくはビールが飲みたくてここへ来たのだ。
目的は達成したい。
なにより、ここはBarなのだ。
ちょんの間ではないのだ。

意を決して、ぼくはバックヤードに向かって叫んだ。
「おはよー!」

バックヤードからは「ふがっ」という情けない声とゴギッと椅子を動かしたであろう音のあと、何秒かして、目をシバシバさせながらマスターが現れた。
とりあえず洋服は着ている。
よかった、情事の邪魔はしていなかったようだ。

「いらっしゃいませ」
とようやくBarに来た様子になってきた。
そのあとは、いつものように生ビールを1杯か2杯飲んだ気がする。
マスターとは取り留めのない話をしたような気がする。

少し赤身がかった色のビールを出すそのBarは、帰り際には「いってらっしゃいませ」と送り出してくれる。
その日もいつもと同じように、
「いってらっしゃいませ」
と送り出してくれた。

ぼくは来た道を戻ることにした。
しかし、ぼくは先ほどからの出来事を思い出して笑い出しそうなのを我慢するのに必死だった。
後ろから見ると、まるで痙攣しているようだったかもしれない。

この日以来、ぼくはそのBarに行くときは、しのび足で階段を降りて、マスターがいるかいないかを確認することにしている。
そのわけは聞かないでほしい。

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